好きな漫画が最終話を迎えた

好きな漫画が最終話を迎えた

 

 

タイトルの通りだ。好きな漫画が最終話を迎えた。昔々のことで、完結を迎えたのは今から七ヶ月前ぐらいのことだ。

全くもって覚悟していたことだった。私は終わりを迎える世界のことは粛々と静かに受け入れたいタイプだったので、ドキドキしながらも慌てず騒がず、その時を待った。

しかし、懸念していたことがひとつあった。

 


私は、物語は『終わりよければすべてよし!』だと思っている。

 

中だるみや、伏線の回収に失敗したり、批判をあびるような箇所があったりしながらも、完走し、その物語として『あるべき終わり』を迎えてくれれば、ああよかったなぁ、と思える。

ハッピーエンドでも、バッドエンドでも構わない。

ただその物語として相応しく、ああ、彼らは生きたんだな、いい話だったなあ、もしくはなんて後味が悪くて最高な話なんだ、と思えればそれで満足だ。

 

言いたいことを言おう。

その好きな漫画は、終わりが良かった、とは言い難かった。

形だけ見れば瑕疵なきハッピーエンドだった。キャラクターたちは幸せそうだった。

 

でも。

 

私は納得がいかなかった。

納得できないままに、物語は終わってしまった。

読了感は、「ああ、私は置いていかれたんだな」というものだった。

ハッピーエンドに至るまでの過程が飲み込めず、置いていかれたような気持ちだったのだ。

『あるべき終わり』として相応しかった、とはとても言えなかった。

そうして、そもそもこの漫画はどういう話だったっけ? どのようなお話としてそこに存在していたのか? という意味すら見失ってしまった。

いつの間にか追いかけていた話がテーマ性やその特質を変えていったのかもしれない、それに気づかぬまま熱中していた自分が、なんだか虚しく感じられたのだった。

 

 

 

もっと踏み込んだことを書こう。

 

そのお話は、主人公が師匠と呼ぶ人物の誕生会で、パイ投げの要領でケーキをぶつけ、それを笑った笑顔で締めくくられる。

私はよくある顔面パイ投げのギャグがあまり好きではない。リアルやフィクション問わず、食べ物を粗末にしながら笑うことに不快感を感じる人は少なからずいると思う。

だが私は、それを投げたひとがこの漫画の登場人物でなければ、全然受け入れられた行動だった。

この漫画の主人公がそれをやったのだ、という描かれ方が、本当に受け入れられなかった。

 

 

主人公は感情を抑制しており、笑わないタイプの主人公である。笑えないのだ、と言っている場面もある。

持って生まれた最強の力のせいで、潜在的な孤独を抱え、その力が感情と連結しているために笑えないのだと、私は思っている。

しかし最終回を目前にして、みんなにありがとう、と言いながら満足げに笑んでいる場面もある。

縁によって孤独が解消されていったのだ、という描かれ方だ。私は、この場面は好きなのだ。笑えるようになって良かったね、と。

この後、自分の生まれ持った力の暴走によって、多くの人が巻き込まれる展開も含めて。

彼は秘めてきた内なる激しい承認欲求のために力を暴走させ、何もかもかなぐり捨て、好きな初恋の女の子に自分を認めてほしいという願望だけに支配され、すべてを破壊しながら前に進み始める。

子供である主人公の思春期と、大人である師匠の青春。

年齢は違うけれども、そのどちらも「自分を受け入れられたい」という根本的な欲求によって悩むことではじまると言えるかもしれない。

そしてそれらが人と人との繋がり、関係性とともに描かれていったのが、私の好きな漫画である。

その思春期に悩む主人公のことが、大好きだった。

何かになりたいという思いを捨てきれない師匠のことが、好きだった。

その主人公に一生懸命になる師匠というキャラクターが、大好きだった。

 

 

それなのに、最終話は。

 

 

 

自分のことを言うと、私はどんな心の許せる人間にもパイ投げはできない。人としてやってはいけないラインかな、と思うからだ。場を面白おかしくしたいがためにするものだろう、というのはわかるが、やられた本人がガチギレすると、ギャグだろ、空気読めよ、と言われるのである。

私はまさにこの最終回を読んだ時、空気読めよ、と言われている気分だった。

 

読めるわけねーだろ!!!

 

と言いたかった。

 

主人公が師匠にパイ投げをして、笑うという行動。

師匠を舐めているのかな、と思ってしまう。

距離感はとりわけ仲良しでもない友人のそれだ。何しても許される、というような。親しき仲にも礼儀あり、をガン無視した関係である。

物語の外側で、主人公は師匠に謝ったかもしれない。さっきはごめんなさい、とかね。

だけどあの瞬間、紛れもなくケーキまみれになって怒った師匠のことを、彼は笑ったのだ。久しぶりに会った師匠なのにだ。どういう笑いなのか、わからない。辱めて笑ったとしか思えなかった。しんみりとした場を盛り上げるためにパイ投げをしたのなら、笑わないと思うのだが。みんなが笑って空気が温まってはじめて、よかった、と笑むようなものじゃないだろうか? 彼は大笑いしている。ゲラゲラ、と音でも付けたいぐらいに笑っている。

付け加えると、多くの人に誕生会を開いてもらったことによる喜びで泣きそうになった師匠の泣き顔をパイ投げで隠すため、という見方もある。

でも、泣かないで!という意味なら、笑うことはないじゃないですか。

そんなにみんなで囲って、誕生日ケーキをぶつけられた人を爆笑するなんておかしいよ。いじめかな?

キャラクター当人の立場に立って考えたとき、私には到底理解できない感情である。

 

考えていて、こんな細かいところサラッと流せや…とめちゃくちゃバカらしくなってくる。それこそ空気の読めない自分自身がバカらしい。

しかしここは重要なポイントだ。すくなくとも師弟が好きな自分は、最終回から推し量る師弟の関係はこの一瞬のやりとりから汲み取るしかない。

私はこの一瞬から、師弟関係は『親しき仲にも礼儀あり、をガン無視した、距離感の不自然に近い関係』になったのだと感じた。

そこに絆や尊敬の念、親しさは感じられない。他の人には悟られない強い絆のようなものや、説明のつかない繋がりみたいなものは、一切読み取れなかった。

告白編のラストなんかとは考えもつかないぐらいに。

 

乱暴な言い方をすれば、

 

相談所は卒業です!!

僕は先輩はもちろん、友達や後輩にも恵まれて充実な生活を送っています!

師匠、お久しぶりです!元気でしたか?

何しんみりしてるんですか、誕生日でしょ!あはは!

 

というふうに思えたのである。あの主人公君が。告白に誠意を持って臨んだあの主人公君が。

あの100話のお話のあとで……? 街はぶち壊れたはずだし、師匠は自分の正体をバラしたが、結局主人公は師に対してどんな感情を抱いていたのだろうか? それはわからない。ただ、主人公が、師匠を師匠と呼び続けているという事実だけがそこにはある。

 

もう全然わかんなくなっちゃった。

だってこの最終話で、「薄っぺらい師弟関係だなあ」なんて感想まで見かけたよ。

そんなこと思いたくないけど、私はパイ投げのシーンを見て、この感想と同じような衝撃を受けてしまった。ショックだった。

師弟とか関係なく、みんなは大勢の人たちに囲まれました、エンド。

もう全然、わかんないよ……

おまけにこの最終回について喚いているのはほぼ自分しかいなかったというのが、かなり堪えた。

いやまじで。これは本当なんですけど、

あの最終回を読んだあと、私は、本気で死にたくなった。

ツイッターの垢もこれまでの創作も、これまでしてきた何もかも無かったことにしたくなった。


 

私はこの状態を、長年付き合ってきた彼氏に突然突き放された時のメンヘラ状態 と称して友人に話した。

めちゃくちゃ爆笑された。

遠からずな表現だと思う。私はメンヘラだったのだ。私のことはこれからメンヘラと呼んでください。

 

 

 

 

この漫画は舞台化された。

そのメンツの、師匠役の人は、なんとこの最終回の一週間前に誕生日を迎え、演者のみんなでサプライズ誕生ケーキを贈ったという。

とても幸せそうな奇跡の一枚絵だった。私はこれを見た時泣いた。

泣いてから、舞台主人公役の彼なら舞台師匠にパイ投げするだろうか…と邪道なことすら考えた。主人公役の彼は笑いの沸点が低く、よく笑うキャラだ。最終話後の主人公であるとしたらどうだろう?なんて考えてしまった。

 

 

この不連続感が受け入れ難く、私はこの最終話のことをおまけ話だった、と言いたいぐらいである。嘘だと言ってよ、と思い続けて七ヶ月。失恋を引きずり続けているわけだ。

 

 

 

クリスマスの夜、私は私の友人たちとこの漫画の最終話について語り合った。

『前話を描いた作者と最終話を描いた作者が同じとは思えない』

彼女のこの言葉が忘れられない。

彼女は私よりもずっと昔から、その漫画を追いかけていた友人だ。彼女は最終話を読んでから、『師弟で始まった話なんだから、最後は師弟の話で締めくくればいいのに』『まだ全然途中じゃん』『作者、飽きちゃったのかな』と言った。彼女は少年漫画をよく読む子なので、私はその感想に更に心がぐちゃぐちゃになった。

また、別の友人は『普通すぎて微妙だった』と言い、また別の友人は『突然だったけど、いい終わり方だった!』と言っていた。

人の感想はそれぞれだ。

 

 

 

これまで、他のファンのみんなが過大解釈で盛り上がって、原作者さんすごい!と持ち上げるやり方がよくわからなかった。こんなことに気づけるなんてすごくない?みたいな、過大解釈選手権でも行われているのかと思うぐらい、「解釈は人それぞれとは言うけどそれはやりすぎ」みたいな妄想をたくさん見かけてきた。

たぶん原作者はそこまで考えてないだろうな、と思うことが多々あったし、だけど感覚で描ける感性の良さが光ってるな、と思っていた。私はそこが好きだ。

そしてその感性は、連載が長引くに連れて精細を欠いていったのかな、とも。

 

前ジャンルはそんなことは全然なかった。原案者、何もわかってねーwwwと散々けなし批判をしつつも、次も待ってる! な感じ。なんだかんだ作品が大好きなのだ。

 

結局のところ、私がここまで悲しくて辛くてたまらないのは、最終話を読んだときの感情に共感してくれる読者がほとんどいなかったからなのかもしれない。

 

 

 好きな漫画の、悲しい終わりでした。